2020年7月15日水曜日

戦地に行くことがあたりまえの青春

                    
三重県から東京に出て、現在の日大映画科へ一浪の翌年に入学した竹内浩三が、残した日記には彼のありのままの言葉が記されている。そして23歳でフィリピンで戦死。その日記が、彼は早くに両親を亡くしていて、ただ一人の肉親であった、すでに結婚していた姉の手元に送られていて現存。この日記は昭和19年1月1日に始まり7月21日で終わっている。部隊に所属してからもトイレで日記や詩などを書き続けた二冊の日記である。
無名の一青年の青春の日々の記録は、心を打つ。生きるとは何か、死ぬとは何かを、読む者にも問われる書である。
彼の東京での学生の日々、失恋の連続、姉に金を送ってもらっての生活。わたしの東京での青春とも重なり、懐かしい日記である。しかし、ぼくとの一番の違いは、時代です。戦地行き、死ぬことが分かっていて出かける戦地、これが、当時の若者たちの強制的な道だったのだ。


しげちぁん

慈(しげる)という名前を、女の子がつけてもらった。でもこの名前は男の子の名前の様で好きになれなかった。小学校に入学した日に、男の子の名前の子は、水色の紙に、女の子の名前の子はピンクの紙に名前が書いてあり、そこに座るようになっていた。 先生は「しげる」と水色の紙に書いていた。先生は...