2019年1月30日水曜日

The Snow Goose

 

「スノーグース」を一時間ほどで読んだ。内容も絵もとてもいい。著者ポール・ギャリコ、絵アンジェラ・バレットである。この作品は1940年に「サタデーイブニングポスト」に発表され、1940年にO・ヘンリー賞を受賞している。今回のこの本の絵はアンジェラ・バレットが描いている。ここには英語版の表紙を載せたが、わたしが読んだのは片岡しのぶ訳の日本語版である。

実はこの絵本を安曇野市の図書館で借り、その前に伊那市の図書館でも借りているのに気づいたのが通院の関係で伊那高原に来た今夜だった。いつも絵本なども何冊かを借りるので、読まないで返してしまう事もある。時間の関係で手ごろな絵本を先に読み、文字数の多い本は返却してしまうことが多いのだ。

気づかずに同じ本を安曇野と伊那高原で二冊借りていたのだ。これは読まなくてはなるまいと思った。この傷ついた野鳥を胸に抱く表紙の少女が俺を呼んでいると思った。

そして一気に読み、各ページの絵にも感動した。野鳥たちや野生の動物たちの命にあたたかな心を寄せる人々にはぜひお薦めしたい本である。この本と出合わずに人生を終えることは、とても、もったいない。

この本が発表されたのは世界大戦の時代である。そうした時代背景の中で、背中に、左手に障害を負った心優しき青年の暮らすのは海辺の湿地帯にある古い空き家となった灯台。全長六メートルのヨットで時々近くの村へ買い物に出る画家であり、野鳥保護にも尽力する孤独な青年の元に、ある日、一人の少女が瀕死のグースを抱いて助けを求めて来たところから、この物語は静かに始まる。

そして、この少女は私にも呼び掛けて来たのだ。安曇野にも毎年冬になるとシベリヤからの白鳥や他の渡り鳥がたくさんやって来る。来週はぜひ会いに行こうと思う。






2019年1月14日月曜日

強烈な画家 ゴッホとゴーギャン

ゴッホの最後の作品と言われる麦畑とカラスの絵
「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」。1880年(27歳)、ヴィンセント(ゴッホ)はテオへの手紙の中で画家を目指すことを告白し、取りつかれたように素描(デッサン)の特訓を開始する。父親が牧師だったゴッホは、自分も伝道師として人々に光を与えようと学習をはじめたが、出来なかった為、絵によって光を与えようとした。芸術はヴィンセントにとって「愛を訴える方法」だった。ゴッホの弟テオは兄の生活を助けるべく仕送りを始め、10年後に兄が自殺するまで毎月続けた。質素に暮らしていることを報告する為か「僕の主食は乾パンとジャガイモ、或いは街角で売っている栗だ」「4日間で23杯のコーヒー以外に殆ど何も食べなかった」と弟に書き送っている。テオが多忙で返事を書けないでいると「君が手紙を寄越さないのは僕が金をせびるのを警戒しているのか」と嫌味を書いたが、テオが表向きは親からの送金といって自腹を切っていたことを父より聞かされ、恥じ入ると共に「心から感謝しているし、君が(仕送りを)後悔しないよう決して期待を裏切らない」と誓った。

27歳から絵を描き始め、37歳でピストル自殺をするまでの10年間という短い歳月だが、強烈な作品を遺していることに感動を覚える。

ゴッホの弟テオからヴィンセント(ゴッホ)の死を知らされたゴーギャンはすぐに追悼の手紙を書いた。「痛ましい知らせを受け取り、深い悲しみに沈んでいます。このようなときに、月並みなお悔やみの言葉をかけるつもりはありません。あなたもご承知のように、彼は誠実な友人でした。そして私たちの時代における数少ない本当の芸術家でした。作品の中に彼はずっと生き続けることでしょう。彼がいつも“岩はいずれ砕けるが言葉は残る”と言っていたように。 私もこの眼と心で、作品の中の彼に会うつもりです~P.ゴーギャン」

このゴッホの友人であったゴーギャンもわたしを引き付ける画家である。ゴッホとゴーギャンに関する書を一度じっくり読んでみたいと思っている。
『黄色いキリストのある自画像』 ゴッホと別れた直後のゴーギャンの自画像






しげちぁん

慈(しげる)という名前を、女の子がつけてもらった。でもこの名前は男の子の名前の様で好きになれなかった。小学校に入学した日に、男の子の名前の子は、水色の紙に、女の子の名前の子はピンクの紙に名前が書いてあり、そこに座るようになっていた。 先生は「しげる」と水色の紙に書いていた。先生は...